TOP
買う
読む
BRAND
ログイン

読む

「生まれ持ったやんちゃ気質」竹之内悠選手インタビュー

学生の頃から数々の戦績を収めてきたCXライダーでありMTBライダーでもある竹之内悠選手。世界でも活躍され、現役選手として活動しながら、現在は立命館大学自転車競技部の監督就任や、京都府のジュニア育成プロジェクトなど、後進の育成も積極的にされています。

そんな竹之内選手の活動を紐解きながら、これから自転車競技を担っていく、次の世代へのメッセージをお届けします。全2回でお送りする今回の記事ですが、第1回目は竹之内選手のこれまでの活動を振り返ってもらいながら、競技者としての考えや、活動の裏側を教えていただきました。 

『生まれ持ったやんちゃ気質』

竹之内悠(以下、T)

「空に憧れて、とにかくジャンプがしたくて。縁石をリップに見立てて、塾の帰り道に飛んで飛んで。中高の時はプレイバイクを持って遊んでました。家にいる時はテレビでスノーボードのPV観たり、スケボーやったり、エックスゲームとかを観てました。興味があったんでしょうね。」

お父さんが自転車好きで、それがきっかけでマウンテンバイクを始めた竹之内選手。その当時、メーカーから機材供給される子供は国内にいなかったが、竹之内選手は小学生の時に既にサポートを受けていた。

T

「親父が管理していたんですけど、今となっては生意気に小6からパナソニックナショナル工業さんのチタンフレームをマウンテンとロード一台ずつ頂いていました。そこから高校3年生まで、6~7年くらいですかね。」

SHIFTA(以下 S)

「周りから見るとすごいなってなりますよね。そこから竹之内さんは高校に進学されて競技を続けられたんですね? 」

T

「そうですね。親が兄と同じ高校に入れたいと思っていたようで、自然と僕もそういう意識でした。立命館宇治高校だったら内部進学で大学まで上がれるんで。その代わり中学校の内申点を頑張らないと。9教科、5段階評価で、40以上必要だったんでめっちゃ勉強しました。」

高校時代には、MTB CXジュニア、国体ロード、全日本シクロクロスジュニア共に優勝と、全種目制覇した竹之内選手。大学進学の際には、様々な葛藤があったことも教えていただいた。

T

「大学進学の時にめっちゃ迷って親と喧嘩もしました。

同世代で伊藤雅和、伊丹健治とか、小森亮平とか、内間康平のような現在の中堅からベテランの選手は、同い年でナショナルチームで頑張ったり、海外のチームに入ったり、海外を目指していたり。

大学を行かないという選択も考えちゃうんで、若いなりに。でも親が絶対大学まで出とけという約束やったんで、内部進学で大学もついてくるし。それを外してまで自転車をやる勇気や魅力があるかその時答えが出せなかったので、大学行くのもありかなと。その頃、マウンテンが楽しいっていう安易な考えもあったんで。

そのタイミングでトレックジャパンさんからお声かけしてもらって、親としては読売巨人軍に入れるというイメージがあったみたいでした。」

S

「すごいですよね。その時、関西界隈の人間からするとその歳でもうトレックかという感じでした。」

T

「野口忍さん(トレックの元MTB選手)からお声掛けいただいて、親もすごく気合入れてくれました。」

 

『U23から世界へ』

T

「U23を連覇したいなんて考えたこともなくて、エリートの辻浦さんを打ち負かせるかなということばっかり考えていました。U23はおまけ、エリートで勝ってなんぼって考えていました。」

輝かしい成績を残す中でが感じた、当時の思いや考えを聞かせていただいた。

T

「ヨーロッパでシクロクロスを走りたいという思いがありました。高校生の時に初めて世界選手権に出て、シクロクロスの方がマウンテンとかよりも世界が近く見えてしまうところがあったと思うんですけど、やって面白かったんで。なんでこいつらこんなに速いんやろっていつも考えてましたね。」

S

「ベルギーや海外で活躍されていて、その時に橋川健さんのチームに入られて優勝されて、立て続けにレースに勝ってコンチネンタルチームに入られましたね。」

T

「3年間、一旦大学を退学して、ヨーロッパに挑戦できる環境を探しました。どこかあるかなと日本で探していた時に大門宏さんと橋川健さんの協力で日本発のサテライトアマチュアチームであるチームユーラシアができるというのを聞いて。ロード、マウンテン、クロスあるけど、そもそもの実力をロードで上げないとやっていけないよなと思って、それでロードをどっぷりやりました。

初年度はユーラシアで、2年目は1回現地のクラブチームに入って、3年目にユーラシアに戻って、その時にコンチネンタルチームが出てるレースで入賞したり、優勝したり。そこで海外のプロチームでスポンサーとかお金のしがらみなく走りたいなと思うようになっていきました。コンチネンタルチームに入っても本当の意味でプロではないんですけど、自分の力でやりたいなと。

橋川さんがすごく共感してチームを探してくれて、その時は全日本をとった年で、成績もそれなりのものがあったので、「全日本チャンピオンやけどチームに入れてくれへんか」ってあるチームに言ったら、「うちは世界チャンピオンがいるから、全日本チャンピオンなんていらないんだよね」って言われて。「そうだよね」って(笑)

それに僕はその年エリート2年目だったんですけど、U23だったらまだ入れたんだけどって言われて。僕もそこに行ってやっていけるかはわからなかったんですけど、その当時どうしてもプロチームに意地でも入りたいと思ってたんで、断られ続ける中で拾っていただいたのがコルバでした。」

S

「2011年に辻浦さんを破った時は、どういうふうに思われましたか。バトルを勝って、辻浦時代に待ったをかけたような感じじゃないですか。」

T

「辻浦さんとレースして前半のハイペースで2人で抜け出したんですけど、その時は辻浦さんについていくのも必死で。その時は僕もヨーロッパでアマチュアのBレースとか走ってたんですけど、今思ったらプロチームに入るような選手や、Bレーストップ5に入るような選手とレースで渡り合えていたのと、ロードもやって自転車の踏み方であったり、その時の年齢の勢いであったり、いろいろ噛み合って僕が伸びてた時期やったんですよ。

あれで1つの時代が終わったとは思ってないですし、辻浦さんがヨーロッパに挑み続けていたルートがあって、そのルートを受け継ぐじゃないですけど、僕も若い子に教えていかないといけない部分だなと。

ヨーロッパでお世話になっていろいろ教えていただいたんで、それを継いで若い選手に教える役目があるなと。

そのレースの夜も辻浦さんに電話してありがとうございましたって連絡させてもらいました。」

S

「竹之内選手以外いないなというところでタイトルを獲られて、そこから5連覇もされていますし、観る側からしたらやっぱり強いなと感じた年でした。その後、2014年に別のチームに移籍されたんですが、それは全く違うチームですか?」

T

「ドルチーニですよね、別のチームです。というのもその年、コルバのコンチネンタルチームに入って、いろいろ勉強させていただいて、ヨーロッパツアーポイント取ったり、プロツアーの選手とスプリントする足もあった中で、コルバは資金難で次の年はアマチュアクラブチームになるという状況でした。

今思えばクラブチームになってもコルバにいた方が環境も変わらずよかったかなと思うんですが、その当時はコンチネンタルチームを維持しておきたいという気持ちが強くて。他チームの監督が国際交流派な方でコンチネンタルチームに来たいなら、うちのチームの来いよというお声掛けもいただいて、それで移籍しました。

すごく多国籍なチームでしたよ。僕以外にリトアニア、オーストラリア、イタリア、ベルギー、オランダ、ドイツとか。主にリトアニア人とイタリア人と色々なところで生活を共にしていました。」

S

「その年は、辻浦選手の9連覇に迫る、5連覇の年だったと思いますが、3位くらいをずっと走られていて、最後に追い込んで優勝されたと思います。ヨーロッパでの経験が最高の勝利を産んだと感じましたが、ご自身の中で節目の5というのは、負けてたまるかという気持ちだったのか、今まで通り走ったら勝てたのか、どう言った気持ちだったんでしょうか。」

T

「僕は自信なかったですね(笑) イケるとは思ってなかったです。

5連覇目の時は足がボロボロで右足の肉離れをしていて、練習もままならなくてローラーで1時間走るのがやっとだったんですよ。その日の朝もストレッチとか、肉離れをケアしすぎて全然エンジンかからなくて、後半になって脚が締まってスピードがパッと出て勝てたんで。

2014年の時にはもう肉離れしてたんですけど、原因がわからなくて。コンチネンタルチームって年間通してレースするじゃないですか。ご飯もいくらでも食べれて、2014~15年くらいは結構太ってしまって。脳がバカになって、どれだけ乗っても満足しない状態。もっと科学的に管理すべきだったとは思います。」

『必要なのは楽しむ気持ち』

2019年はマウンテンバイク全日本5位。驚いたのは長丁場でリタイア続出の中で、ロード全日本の激しいレースで完走したことだ。あのレースはまぐれで完走できるようなものではなく、持脚もあるし、今年は来るなとリザルトを見て確信した。2019年以降の活躍について伺った。

T

「去年はロードの時から調子良かったです。その後の夏でEマウンテンの世界選手権に行ったり、高校生の研修授業に行ったりで、パフォーマンスが落ちることが多かったんですけど、マイナスのところばかり見てもしょうがないので。そこを休みとしてベルギーに行ったら結果も悪いなりに調子良かったんです。

年の功か、疲れの取り方や疲労を感じることができるようになってコントロールしていたんですけど、日本帰ってから時差があったりヨーロッパの疲れがかなりあったので、野辺山に向けて体を組み立て直しました。」

S

「全日本は惜しくも2位だったんですが、前田公平さん強いですよね。でも全盛期の竹之内さんならスプリントでは負けなかったのでは。」

T

「全盛期なら勝てましたね。あの時も今年勝てそうやなって話をチームともしていて、僕の中でもテンションがマックスになってたんで、勝つためには昔みたいにやりきったほうがいいんちゃうかなって。で、練習で追い込んだら右足の古傷の肉離れをやっちゃって、プラス全日本の1週間前くらいに脛に謎の腫瘍ができて。歩くのも痛かったんですけど、レース本番はそのまま頭のリミッター切って走り通しました。もう勝つって決めて火が付いちゃってるんで。でも、そんなコンディションだったんで全日本の時はあんまり。気持ちだけで走りました。ま、走れたんでそんなに実際は影響なかったのかもね。言い訳みたいになるので嫌ですけど、見ていただいてる方に説明するためにレース後にブログでは書きました。」

全日本では惜しくも2位だった。勝ちにこだわるなら他の手段もあった中、王者とされている人は、王者の走りをしないといけない。正々堂々していて、見ている側も気持ちの良いレースだった。

最後に、これからレースを始める方に向けて、シクロクロスを始める中で最低限必要なものを伺ってみた。

T

「楽しむ気持ち(笑)」

「機材としては壊れない自転車じゃないですか、本当の意味で。初めの頃ってヘタッぴなんでいっぱいコケはるでしょうし、変にカーボンの軽いのとかイキがって買ってもね。ヨーロッパでも、一回ある選手が某大手のバイクで世界選手権トップくらいでスタートして、ギャップに入ったらいきなりフレームが折れてコケて、ムカついてバイク投げて次の年にはそのチームそのものを辞めてましたもんね。それが原因かわからないですけど。その年、彼は調子良かったんで、悔しそうでした。まぁそんなエピソードもあるので、だから壊れない、自分の気に入ったブランドのお気に入りが一番いいと思います。あと何か好きなポイントがあるといいですよね。色でもいいですし、気持ちが上がる自転車で。デュレイラーハンガーはどこの自転車もすぐ飛ぶんで、そういうのがしっかり考えられたフレームとか。」

現役選手として活動される竹之内選手ですが、恵まれた環境だけでなく、レースに向けて取り組む姿勢が印象的でした。次回は、立命館大学自転車競技部での監督就任など、後進の育成への取り組みのお話を伺いたいと思います。

この記事を書いた人

ヤマモト

  • X

>書いた記事の一覧

#LINZINEの最新記事

  • TOP
  • コラム一覧
  • 「生まれ持ったやんちゃ気質」竹之内悠選手インタビュー

ページトップ